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小説でTOSHINを読む

  • TOSHIN物語 Vol.1

    常識破りな経歴を持つ中澤が
    アジリティーで働くワケ

    主人公
    企画部 中澤

今、僕はアジリティーのデザイン企画室で図面やパースを手掛けているけど、ここまでくるのにいろんなところを寄り道してきた。多くの人は、最初に入社した会社で長く働き続けることが社会人の「普通」なんじゃないかって思っているんじゃないかな。でも、僕の場合はそういう「普通」のルートから外れていたんだ。

このページを読んでくれている人はきっと「働く」ってことや「社会」のことを思い浮かべた時に、ぼんやりと考えては不安になったことがあると思う。
もうちょい具体的に言ってみれば、「社会に出た後は、一度選択する道を間違えたらもう挽回できない」なんていうネガティブなイメージを抱いている人って少なくないと思うんだ。でも、そんな不安を感じる人に僕が言いたいのは「人生なんとかなる」ってこと。「点」として存在している数々の出来事が後で振り返った時に一本の「線」で全部繋がるようになっているって思えるんだ。面白いよねぇ。

これから、僕がどんな寄り道をしてきたのかを話そうと思う。

「こんな経緯を持った人がアジリティーで働いているんだ!」

ってな感じで、サクッと読んでくれたら嬉しいな。僕の話が、将来に対する漠然とした悩みを解決する糸口になれたら何よりだ。

まず、僕は今やっているような仕事を最初から志していたわけじゃなかった。
近所の床屋の兄ちゃんのことが好きだったこと、一対一で人の人生を変えられるような仕事がしたい!って思いで高校生の頃は美容師を目指していた。総合学科に通っていたし、本気でなるつもりだったんだ。けど、高校3年生の時に美容師を泣く泣く諦めるしかない事実が発覚した。自分の髪を金髪に染めたんだけど、薬品が肌について酷くかぶれてしまった。魚のウロコみたいになっちゃって、これは無理だなって。美容師になるのは体質的に難しいことが分かった以上、進路を変えざるを得なかった。

そこで選んだのはアパレルの世界だった。

高校卒業後、上京してとあるファッションの専門学校に入学した。上京したのは、一番有名な専門学校に入ればまず間違いないと思っての選択だったんだ。ただ、僕は肝心の服がそこまで好きじゃなかったし、儲からないと思っていた。アパレルに関わりつつ、何か別のアプローチはないかって考えた時にたどり着いたのがパソコンだった。ファッションショーのイベント演出で使う映像制作を行うようになって、パソコンにどんどん強くなったんだ。そのおかげで仕事の依頼も来るようになった。

ファッションの専門学校に通ったことでパソコンに強くなった僕は、web制作会社に入社した。

その会社ではモータースポーツ関係の速報を現場で書き、更新するという仕事をしていた。けれど、この会社で長く働くことは叶わなかった。なぜか?この会社の一番大きなお客さんだったとある自動車会社がF1から撤退したことをきっかけに、会社の経営が一気に傾いてしまい、そのまま倒産してしまったのだ。なんてこった、これからどうしようか……。社会に出てから最初にして最大の試練だった。

そんな時、知人が“修行”を持ちかけてきた。

「町田の焼肉屋と吉祥寺のキャバ、どっちで働くか選べ」

当時、彼女がいた僕は焼肉屋で働くことを選んだ。なんでも、それまではベテランが店を切り盛りしていたのだが、あまり経営がうまくいかず、店を辞めてしまったそうだ。そのため、僕がそのベテランに代わって働く、ということになったのだ。でも、“修行”を始めて3ヶ月経ち、店もいよいよオープンする、となった段階でようやく気づいた。(ベテランの人ですらうまくいかなかった店なら、僕がやってもダメなんじゃないのか?)オープン直前、僕は「やっぱりここで働くのはやめます」と告げた。すると、そのお店のバックに怖い人たちがいることが判明。結構ゴタゴタしちゃったから一旦大阪に逃亡したんだ。(笑)

逃亡した後はどうしたのか?逃亡するまでは高円寺に住んでいたんだ。

高円寺って日本三大阿波踊りの地として有名なのは知っているかな、それ関連でふと「徳島に行こう!」って思いついて、そのまま引っ越した。物価も安いし、webのスキルを持っているから何かしら仕事はあるだろうし、生活に困らないだろうっていう考えがあったんだけど、そう甘くはなかった。今まで都会で生活していたゆえの盲点、「車の免許がないと何の仕事にも就けない」という現実をハローワークで突きつけられたのだ。

免許を持っていなかった僕は徳島に来て最初の一年で、コンビニとカラオケバイトを掛け持ちしながら教習所に通い、免許を取得した。

そして、ようやくアニメの制作会社で働くことが決定した。その会社で僕は作画をしていて、例えばマスターとサーヴァントが出るあの作品なんかも描いた。友達がラノベ作家だからその挿絵を描いたりして、結構順調な再スタートだった。

でも、そこで終わりじゃなかった。

僕は(25歳になるまでにまた東京に出ないと、帰るタイミングを失う)と考えていた。徳島で一生を過ごすつもりはなかったんだ。それに、何か手に職をつけたいと考えていたから、その条件に引っかかるような東京の求人を探して、ある会社に目星をつけた。まだ面接も受けていないし、採用されるかもわからなかったけど、もうそこで働くつもりで東京へ引っ越したんだ。

その会社こそが東真だった。

僕が見た求人は“東真の施工”だったし、当然施工を希望して面接を受けたんだけど、思いがけない提案をされた。

「アジリティーの方で図面を描かない?」

当時のアジリティーはまだ誕生してから日も浅かったこともあり、図面をかける人がいなかった。面接の結果、僕はアジリティーで図面を描くことになった。

僕が図面を描けることで、アジリティーに定期的に仕事の発注をしてくれるクライアントさんがいた。その縁で、面白いことに入社当初は音楽系イベントの仕事を他社のTさんという師匠とペアでやっていたんだ。彼がディレクターで僕がアシスタントディレクターという形だ。彼は現場の経験が豊富だったから、一緒に働くことでイベント運営にまつわる多くのイロハを吸収できた。でも、人の縁というのはとても不思議なもので、意気投合していたTさんとは些細な喧嘩をきっかけに一気に疎遠となってしまった。

元々僕はアジリティー内でデザインを担当するはずだったので、これを機にイベントのディレクターから離れてデザイン一本で働くことになって、今に至るって感じかな。あ、当時イベントの仕事を発注してくれたクライアントさんとはありがたいことに今でも僕受けで仕事をしているよ。

過去を振り返って僕が思うことは、ただの寄り道だと思っていた一つ一つの経験が今の僕へ導いたんだっていうことだ。

「アジリティーで働く今の僕」というのも、これから先の僕を作りあげるための通過点にすぎない。今だって僕はこれからやってのけたいことがいくつもあるし(笑)。でも、そんな野心を実現させられるような環境がアジリティーにはあるから、アジリティーで得られることはまだまだたくさんあるなって思っている。

まだまだ人数が少ないアジリティーは、メンバーが一人増えたり減ったりするだけで、会社の色が大きく変わるんだ。

それは、良い方向かもしれないし、悪い方向に転ぶかもしれない。メンバーの人柄とかスキルがそのまま会社の色になるから、緊張感と責任感を背負いつつ、でも際限なく挑戦的に働ける。それがうちの一番の魅力だと思うな。

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